2014年05月10日

ジャイル・ホドリゲスがお亡くなりになりました

O Fino da Bossa のエリスとのコンビでも有名なジャイル・ホドリゲス(Jair Rodrigues)が、この8日の朝(現地時間)にサンパウロの自宅でお亡くなりになられたそうです。75歳でした。

“歌手のジャイル・ホドリゲスが75歳でサンパウロのコチアにて死去”
Folha: "Morre o cantor Jair Rodrigues aos 75 anos em Cotia, São Paulo"

“ブラジル音楽は、75歳で死去ジャイル・ホドリゲスのアレグリア(喜び)を失う”
Folha: "Música brasileira perde a alegria de Jair Rodrigues, morto aos 75"

“ジャイル・ホドリゲス、サンパウロにて埋葬”
Globo: "Jair Rodrigues é enterrado em São Paulo"(ニュース動画)

家族や直近の仕事仲間らの談話によると、健康上の問題は特になくほんの数日前まで普通に仕事をこなしており今月もいくつかライブ予定が入っていて、今回の件はまったく突然の訃報だったようです。

8日の朝、普通に自宅のサウナに入りその後9時半前後に発見された時は既に息を引きとっていたそうです。死因は心筋梗塞でした。

エリス・レジーナの息子で音楽プロデューサーのジョアン・マルセロ・ボスコリ(João Marcelo Bôscoli)は

“ジャイルは月に平均15ぐらいのライブをこなしていていて全く健康だったよ。彼はもう十分に稼いでいたけど、ずっと仕事詰めだったんだ。なぜなら仕事を愛してたからだよ。歌手の仕事を愛してる、といつも言っていた”

と語っています。

クラウジアレイチとデュエットしている割と最近の映像:
"Deixa isso pra lá - Jair Rodrigues & Cláudia Leitte"


ジャイル・ホドリゲスは1939年、イガラパヴァ(Igarapava)というサンパウロの中心から北に450kmほどいったところにある田舎街に生れました。

若い頃は、靴磨きやら仕立て屋の手伝いあるいは左官など様々な職業をやっていたそうですが、そんな生活の中で教会音楽やセレスタの影響を受けながら仕事場の仲間らとアタウフォ・アウヴェス、アゴスチーニョ・ドス・サントス、シルヴィオ・カウダス、アンジェラ・マリア等といった音楽を聴いていたそうです。

そういった仕立て屋の仕事をこなしつつも、1957年ごろにはクルーナースタイル(ビング・クロスビーみたいなやつ)の歌手としてサンパウロ州の地方のバーなどでプロとして歌いはじめていて、ラジオのオーディション番組に出演して賞を取るといったような事もあったようです。

1962年に同年のワールドカップ向けの曲を収めた最初の録音ディスク(78回転)、そして 1964年には "Vou de samba com você" と "O samba como ele é" の2枚のLPを発表しますがこの時期に、言葉をラップのようにリズミカルに曲に載せて歌う "Deixa isso pra lá" がその歌うジェスチャーとともに人気を博し一気に有名になったといわれています。

そして1965年、MPB の歴史において重要な一里塚となる、あるショウがサンパウロのテアトロ・パラマウントで行われることになります。

このショウの模様はライブ盤として録音され "2(Dois) Na Bossa" という名前のLPになり、2014年の今日では日本にある HMV や TOWER RECORD あるいは Amazon といった通販サイトを探せば比較的容易に購入できるクラシック・アルバムの一つとなっています。

capa-dois-na-bossa.jpg

本来このショウにはバーデン・パウエルが出演の予定だったのですがキャンセルとなり急遽抜擢されたのがジャイル・ホドリゲスで、後にオ・フィーノ・ダ・ボッサで共演者となるエリス・レジーナの横に彼が立つ初めてのステージでもありました。ちなみに、このライブでのバックバンドは、ジョンゴトリオ(Jongo Trio)。

ショウは大盛況となり、ライブ盤はブラジル初の100万枚超えという超ヒットを飛ばし、評判をききつけたテレビ関係者らが2人に司会をオファーして始まったのが、有名なTVヘコール(TV Record)の『オ・フィーノ・ダ・ボッサ(O Fino da Bossa)』です。

1965年から1968年までの間にエリスとジャイルのコンビ司会のもと、ジョビン、ヴィニシウス、ドリヴァルカイミやオス・カリオカスらといった大物タレントをゲストに呼び放映された番組は MPB にとって指針となるべき重要な存在であったとされています。

ちなみにレギュラーのバックバンドとしてこの番組を長らく支えたのが、私 blogsapo が最も敬愛するブラジリアンジャズトリオである Zimbo Trio です。

こうしてエリスとともにその人気を不動のものにしたジャイル・ホドリゲスはTVヘコール主催第二回ブラジル音楽祭(Festival de Música Popular Brasileira)においてジェラウド・ヴァンドレとテオ・ヂ・バホスの"Disparada"を歌い、シコ・ブアルキの『ア・バンダ』と同点の一位を獲得するなどキャリアを広げていきました。

1980年代あたりからはセルタネージョにも挑戦し(というか出身とか人柄の感じとか見ていると実はこの人むしろサンバではなく、もともとムジカカイピラのほうが根っこにあるんじゃないか、という気もしてくるのですが…)、シタンズィニョ&ショロロとの共演作ではこれまた100万枚越セールスを記録するヒットとなりました。

"Jair Rodrigues e Chitãozinho e Xororó, Majestade O Sabiá"


今年の3月には新曲を含む2枚組CD "Samba Mesmo" を発売したばかりで、ジャイル・ホドリゲスはこの約50年にわたって文字通り休むことなく歌手を続けてきた人なんですね。

解説書にボールド文字で記載されるような重要な仕事をMPBの歴史を刻み、成功を手にしてそれでも飽くことなく天に召される間際まで仕事を続ける。これは歌手としての仕事を心底愛してないと出来ない事だと思います。まさにマルセロ・ボスコリのおっしゃるとおりなんですね。

そして何よりも人柄が良い。ぶっちゃけ超ビッグスターの中にはちょっと身近に居たら困るかなァ…って感じの、素行にヤヤ問題アリの方は稀におられる訳ですけど、各方面から送られている弔辞を読むと、ジャイル・ホドリゲスは本当に皆から愛されてた人なんだなァってのが感じられるんです。

“フェイスブックにてジルマ大統領がジャイル・ホドリゲスへ賛辞を送る”
Folha: "Em rede social, Dilma faz homenagem a Jair Rodrigues"

ロベルト・メネスカルの言葉の抜粋:

“私は彼を『サンバの喜び』と呼んでいたよ。単なる歌手ではなく、彼は『喜び』を歌っていたんだ。彼の前では誰も深刻な気分にはならないんだ。私は20年ポリグラムで彼と一緒に仕事をしたが、録音のために彼がリオにやって来るのはいつでもスタジオや仕事場の誰にとっても喜びだったよ”

カエターノは他の誰よりも長文でジャイルの功績を称えています。

カエターノ・ヴェローゾの弔辞の抜粋:

“ジャイル・ホドリゲスはブラジルが誇るべき数少ない人物の一人だよ。…彼はやらないといけないから仕事する、というようなやり方は決してせず、仕事が彼にとっての自然な仲間意識の表現だったんだ…オ・フィーノ・ダ・ボッサは我々の音楽の歴史における貴重な瞬間のひとつだ。エリスがその緊張感あふれる熱気で音楽的な側面を支配しつつ、一方のジャイルはリラックスと緩和の側面を引きうけていた”

一言でいうと、ジャイル・ホドリゲスは「仕事を愛し、そして陽気さ(alegria)を周囲に与える人だった」と、これが皆の一致した意見なんですね。

私も "Dois na Bossa" を聴いて故人を追悼したいと思います。




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posted by blogsapo at 18:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | MPB, BossaNova | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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