2014年05月10日

ジャイル・ホドリゲスがお亡くなりになりました

O Fino da Bossa のエリスとのコンビでも有名なジャイル・ホドリゲス(Jair Rodrigues)が、この8日の朝(現地時間)にサンパウロの自宅でお亡くなりになられたそうです。75歳でした。

“歌手のジャイル・ホドリゲスが75歳でサンパウロのコチアにて死去”
Folha: "Morre o cantor Jair Rodrigues aos 75 anos em Cotia, São Paulo"

“ブラジル音楽は、75歳で死去ジャイル・ホドリゲスのアレグリア(喜び)を失う”
Folha: "Música brasileira perde a alegria de Jair Rodrigues, morto aos 75"

“ジャイル・ホドリゲス、サンパウロにて埋葬”
Globo: "Jair Rodrigues é enterrado em São Paulo"(ニュース動画)

家族や直近の仕事仲間らの談話によると、健康上の問題は特になくほんの数日前まで普通に仕事をこなしており今月もいくつかライブ予定が入っていて、今回の件はまったく突然の訃報だったようです。

8日の朝、普通に自宅のサウナに入りその後9時半前後に発見された時は既に息を引きとっていたそうです。死因は心筋梗塞でした。

エリス・レジーナの息子で音楽プロデューサーのジョアン・マルセロ・ボスコリ(João Marcelo Bôscoli)は

“ジャイルは月に平均15ぐらいのライブをこなしていていて全く健康だったよ。彼はもう十分に稼いでいたけど、ずっと仕事詰めだったんだ。なぜなら仕事を愛してたからだよ。歌手の仕事を愛してる、といつも言っていた”

と語っています。

クラウジアレイチとデュエットしている割と最近の映像:
"Deixa isso pra lá - Jair Rodrigues & Cláudia Leitte"


ジャイル・ホドリゲスは1939年、イガラパヴァ(Igarapava)というサンパウロの中心から北に450kmほどいったところにある田舎街に生れました。

若い頃は、靴磨きやら仕立て屋の手伝いあるいは左官など様々な職業をやっていたそうですが、そんな生活の中で教会音楽やセレスタの影響を受けながら仕事場の仲間らとアタウフォ・アウヴェス、アゴスチーニョ・ドス・サントス、シルヴィオ・カウダス、アンジェラ・マリア等といった音楽を聴いていたそうです。

そういった仕立て屋の仕事をこなしつつも、1957年ごろにはクルーナースタイル(ビング・クロスビーみたいなやつ)の歌手としてサンパウロ州の地方のバーなどでプロとして歌いはじめていて、ラジオのオーディション番組に出演して賞を取るといったような事もあったようです。

1962年に同年のワールドカップ向けの曲を収めた最初の録音ディスク(78回転)、そして 1964年には "Vou de samba com você" と "O samba como ele é" の2枚のLPを発表しますがこの時期に、言葉をラップのようにリズミカルに曲に載せて歌う "Deixa isso pra lá" がその歌うジェスチャーとともに人気を博し一気に有名になったといわれています。

そして1965年、MPB の歴史において重要な一里塚となる、あるショウがサンパウロのテアトロ・パラマウントで行われることになります。

このショウの模様はライブ盤として録音され "2(Dois) Na Bossa" という名前のLPになり、2014年の今日では日本にある HMV や TOWER RECORD あるいは Amazon といった通販サイトを探せば比較的容易に購入できるクラシック・アルバムの一つとなっています。

capa-dois-na-bossa.jpg

本来このショウにはバーデン・パウエルが出演の予定だったのですがキャンセルとなり急遽抜擢されたのがジャイル・ホドリゲスで、後にオ・フィーノ・ダ・ボッサで共演者となるエリス・レジーナの横に彼が立つ初めてのステージでもありました。ちなみに、このライブでのバックバンドは、ジョンゴトリオ(Jongo Trio)。

ショウは大盛況となり、ライブ盤はブラジル初の100万枚超えという超ヒットを飛ばし、評判をききつけたテレビ関係者らが2人に司会をオファーして始まったのが、有名なTVヘコール(TV Record)の『オ・フィーノ・ダ・ボッサ(O Fino da Bossa)』です。

1965年から1968年までの間にエリスとジャイルのコンビ司会のもと、ジョビン、ヴィニシウス、ドリヴァルカイミやオス・カリオカスらといった大物タレントをゲストに呼び放映された番組は MPB にとって指針となるべき重要な存在であったとされています。

ちなみにレギュラーのバックバンドとしてこの番組を長らく支えたのが、私 blogsapo が最も敬愛するブラジリアンジャズトリオである Zimbo Trio です。

こうしてエリスとともにその人気を不動のものにしたジャイル・ホドリゲスはTVヘコール主催第二回ブラジル音楽祭(Festival de Música Popular Brasileira)においてジェラウド・ヴァンドレとテオ・ヂ・バホスの"Disparada"を歌い、シコ・ブアルキの『ア・バンダ』と同点の一位を獲得するなどキャリアを広げていきました。

1980年代あたりからはセルタネージョにも挑戦し(というか出身とか人柄の感じとか見ていると実はこの人むしろサンバではなく、もともとムジカカイピラのほうが根っこにあるんじゃないか、という気もしてくるのですが…)、シタンズィニョ&ショロロとの共演作ではこれまた100万枚越セールスを記録するヒットとなりました。

"Jair Rodrigues e Chitãozinho e Xororó, Majestade O Sabiá"


今年の3月には新曲を含む2枚組CD "Samba Mesmo" を発売したばかりで、ジャイル・ホドリゲスはこの約50年にわたって文字通り休むことなく歌手を続けてきた人なんですね。

解説書にボールド文字で記載されるような重要な仕事をMPBの歴史を刻み、成功を手にしてそれでも飽くことなく天に召される間際まで仕事を続ける。これは歌手としての仕事を心底愛してないと出来ない事だと思います。まさにマルセロ・ボスコリのおっしゃるとおりなんですね。

そして何よりも人柄が良い。ぶっちゃけ超ビッグスターの中にはちょっと身近に居たら困るかなァ…って感じの、素行にヤヤ問題アリの方は稀におられる訳ですけど、各方面から送られている弔辞を読むと、ジャイル・ホドリゲスは本当に皆から愛されてた人なんだなァってのが感じられるんです。

“フェイスブックにてジルマ大統領がジャイル・ホドリゲスへ賛辞を送る”
Folha: "Em rede social, Dilma faz homenagem a Jair Rodrigues"

ロベルト・メネスカルの言葉の抜粋:

“私は彼を『サンバの喜び』と呼んでいたよ。単なる歌手ではなく、彼は『喜び』を歌っていたんだ。彼の前では誰も深刻な気分にはならないんだ。私は20年ポリグラムで彼と一緒に仕事をしたが、録音のために彼がリオにやって来るのはいつでもスタジオや仕事場の誰にとっても喜びだったよ”

カエターノは他の誰よりも長文でジャイルの功績を称えています。

カエターノ・ヴェローゾの弔辞の抜粋:

“ジャイル・ホドリゲスはブラジルが誇るべき数少ない人物の一人だよ。…彼はやらないといけないから仕事する、というようなやり方は決してせず、仕事が彼にとっての自然な仲間意識の表現だったんだ…オ・フィーノ・ダ・ボッサは我々の音楽の歴史における貴重な瞬間のひとつだ。エリスがその緊張感あふれる熱気で音楽的な側面を支配しつつ、一方のジャイルはリラックスと緩和の側面を引きうけていた”

一言でいうと、ジャイル・ホドリゲスは「仕事を愛し、そして陽気さ(alegria)を周囲に与える人だった」と、これが皆の一致した意見なんですね。

私も "Dois na Bossa" を聴いて故人を追悼したいと思います。


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2013年10月21日

シキーニャが生まれたから10月17日はMPB記念日

ボサノヴァを含むブラジリアン・ポピュラー音楽全般を"MPB"(エミ・ペー・ベー, Música Popular Brasileira)と呼びます。狭義ではボサノヴァ以降の時代でボサノヴァ的なシンガーソングライタースタイルの音楽を差す場合もありますが、原語の字面通りな意味でポピュラーミュージック全般を広く意味することも多い用語です。

さて数日前の話ですが、10月17日はブラジルの法律で定められた記念日のひとつ『MPBの日』でした。知ってましたか?

私はついこないだまで全然知りませんでした。…ふふん青二才め。そんなもんはブラジル音楽マニアの基本中の基本じゃろうが、何十年も前から知っとるわ若造がっ!!!…と思ったアナタはたぶん、記憶に問題があるかホラ吹きの気があります。

じつはこの日、ほんの去年できたばっかりの記念日だそうです。

"Você sabe por que hoje é o Dia Nacional da MPB?"
"どうして今日がMPB記念日なのか、わかるかな?"

ブラジルの新聞フォーリャ・デ・サンパウロの公式サイトの子供向け記事ページ Folhinha の参考記事(2013/10/17付け)のリンク

昨年から、10月17日はブラジル・ポピュラー・ミュージックの記念日になりました。

この日は、ブラジルにおける最初の女性作曲家であるシキーニャ・ゴンザーガ(Chiquinha Gonzaga)の生誕を記念して、ジルマ大統領によって制定されたのです。

シキンニャは1847年にリオ・デ・ジャネイロで生まれました。ブラジルのカーニバルにおける代表曲のひとつになった『オー・アブリ・アラス』(Ó Abre Alas)は、彼女がつくった曲なんですよ。

政治や音楽だとかいった世界に女性がいる場所がないような時代にシキンニャは生きましたが、彼女は作曲家で指揮者であっただけでなく、時代の大きな社会的変化にもかかわっていたんですよ。

彼女が遺したたくさんの曲は、タンゴ・ブラジレイロやショーロやマルシャ(マーチ)といった様々なリズムを混ぜ合わせて、教養的なものと大衆的な音楽の橋渡しをしたのです。


シキーニャ・ゴンザーガ(Chiquinha Gonzaga)、本名はフランシスカ・エヂヴィジェス・ネヴェス・ゴンザーガ(Francisca Edwiges Neves Gonzaga)だそうですが、なんと1847年お生まれの方です。1947年ちゃいますよ。前々世紀のお方なんです。

こちらのページに日本語による詳しいバイオグラフィーと解説が載ってますので読んでいただくとわかりますが、ブルジョワ階級のお嬢さんとして生れつきながらも(というか、だからこそかもしれませんが)情熱と波乱に満ちた人生を送られた方のようです。

上のフォリンニャの記事にもあるように彼女はおそらくブラジルでもっとも早くにルンドゥ(Lundu)のようなアフリカ奴隷ルーツの音楽とヨーロッパ由来のクラシック音楽やワルツやポルカといった音楽をフュージョンさせて、マシーシ(Maxixe)やショーロ(Choro)といった後々にサンバやボサノヴァへとつながっていくブラジル独自のサロン・ミュージックの系統樹を発生させた先駆者であったと考えられます。

ブラジルポピュラー音楽における多くの優れた成果の源泉が、こういったアフリカとヨーロッパ音楽文化の融合によるものであることに異論のある人はまず居ないと思いますが、シキーニャがそれを成し得た理由のひとつはもしかすると出生の経緯にその秘密の一部があるのかもしれません。

というのは、彼女はブラジル帝国陸軍の将軍という非常に立派な血筋の父の娘でありますが、母親のホーザ・マリア・ネヴェス・デ・リマ(Rosa Maria Neves de Lima)さんは、貧しい家の出身でメスチッサだったとされています。

※メスチサ/メスチソ…白人とインディオ、あるいはアフリカ人など肌の色の混血した人の意味。この場合女性なので mestiça 男性だったら mestiço

歴史的に他の南米諸国に比べると混血にかなり寛容なブラジルですが、なにしろ19世紀半ばの上流階級の話ですからこの身分差婚には相当の風当りがあったらしく、フランシスカことシキンニャちゃんは両親が未婚のままの誕生となり、最終的に家族らの反対を押し切って正式な結婚が成立するまで生まれてから数ヶ月を必要としたようです。

これは私が勝手な想像と思いつきで推測してるだけですが、おそらく彼女の音楽性や生き様にはこの出生と母親の影響が少からずあったんじゃないかと思うんですね。9才にしてピアノを与えられ、当時の音楽界の鬼才といわれたマエストロ・ロボ(Maestro Lobo)の元で音楽を学ぶというような典型的な貴族的教育を受けて育ったシキーニャは11歳にしてクリスマスの演劇のために"Canção dos Pastores"という曲を初めて作曲します(作詞は彼女の弟)が、そんなころからシキーニャは庶民向けのルンドゥやウンビガーダ(umbigada)の集りにしょっちゅう顔を出していてアフリカ系リズムの音楽性に興味をひかれていたようです。

生涯を通して2000曲ぐらい作曲があるそうですが、そのごく一部は例えば Wikipedia のポルトガル語版のページや、現在遺品を管理していると思われる IMS (Instituto Moreira Salles、以前ご紹介したバーデン・パウエルやピシンギーニャの遺品も管理する研究財団)のシキンニャのアーカイブサイトなどで聴くことができます。

※IMSの Chiquinha Gonzaga アーカイブのリンクはここですが、開くといきなり音楽が鳴るので注意。
  いろんな曲を聴くには[Gravações diversas]/[Gravações recomendadas]/[Canções cançonetas]
  のどれか選んでから [Clique e ouça] をクリック


なお、録音は本人の演奏ではなかったり、音がえらく古くてもアレンジや楽器構成が実際の作曲時期のものより何十年も後のものがあったりする事に留意しながら聴く必要があります。

- アブリ・アラス -

これら大量に残された作品の中でも特に知名度が高いとされているのが、Folhinha の記事にもある "Ó Abre Alas"(オー・アブリ・アラス)で、これは今日に至るまで "marchinha de carnaval "(カーニバル・マーチ)の代表曲のひとつとして長く親しまれているものです。

マルシャ、あるいはマルシンニャは英語で言うマーチのことですが、いわゆるリオのカーニバルの映像なんかで見るようなメイン会場でコンテスト形式で観客に囲まれてパレードするサンバのテーマ曲はサンバ・ジ・エンヘードと言いますが、それとは別に普通に市民が街を練り歩いたりするときに演奏したり歌ったりする曲がマルシンニャ(marchinha)と呼ばれています。ものすごぉーく大雑把なイメージで言うと、エンヘードが学校対抗のNHK合唱コンクールのテーマ曲で、マルシンニャは学祭の吹奏楽部の演奏曲みたいな存在です。

"Ó Abre Alas" が有名な理由は曲の完成度や親しまれ度合いといった事ももちろんですが、これがカーニバルのマルシャの歴史上最初の曲とされているから、という事があります。

ブラジルのカーニバルは旧宗主国であるポルトガルからの移民がヨーロッパの習慣をもちこんだエントルードというお祭りが始まりですが、ブラジルの庶民の間ではドブの水をプッカケ合ったりバカ騒ぎしながら楽器を適当にバコバコ鳴らすようなお祭りになっていったらしいです。もちろん組織だったエスコーラもエンヘードもなく、特にカーニバル用にあつらえた曲もなかったので適当にありものの曲を鳴らしていたのですが、時代が下りシキーニャが活動していた19世紀末のブラジルではコルダォン(cordão, 現代のブロコとかエスコーラの原型)というグループでまとまって互いに対抗するような、現代のカーニバルの原型みたいなフォーマットができあがりつつあったということです。

そんな時代背景の中、シキーニャが住んでいた家の近所のアフリカ系黒人のコルダォンであった cordão Rosa de Ouro(ローザ・ジ・オウロ団、金の薔薇の意)がやっていたユニークなリズムと踊りに興味をひかれ、彼らのために作曲したのがこの曲『オー・アブリ・アラス』といわれています。

また、シキーニャの甥でジャーナリストのジェイサ・ボスコリ(Geysa Boscoli)の著作などによると、団長から直々に"ウチらのために一曲書いてほしい"と頼まれて作った、とも言われています(ちなみに Geysa Boscoli はロナルド・ボスコリ、いわゆるエリス・レジーナの元夫であるまさにそのヒトのおじさんにあたる人)。

いずれにせよ、この曲はコルダォン・ローザ・ジ・オウロのテーマ曲となり、ヒットを飛ばし何年もカーニバルのマーチとして使われて"最初のマルシンニャ"として歴史に名を刻むことになります。実際にはこの曲以前にもカーニバル用にあつらえたマーチ曲が作られた事もあったと思われますが、特定のコルダォン向けにカーニバルのマルシャ用の意図をもって作曲し、かつヒットした最初の曲としてその栄冠をつかんだわけですね。ここらへん、ボサノヴァにおける"Chega de Saudade"の立ち位置なども似たようなストーリーがありますし、おそらく他のジャンルの音楽にしてもそんな感じの話があると思います。

曲の演奏例はこんな感じです。



この録音は、この曲が総体として初めてきちんと録音された最初のもので 1971年の RCA/Abril Cultural レーベルで Linda e Dircinha Batista 姉妹が "História da música popular brasileira"『ブラジルポピュラー音楽の歴史』というアルバムに収録したものだそうです…っていうか、この情報、動画に1つだけついているようわからんどっかのオッチャンのコメントそのままパクりましたが、このオッチャン他にも古いレアもの録音の動画にやたらと詳細でマニアックな情報をコメントしてはるんですが一体何モンなんでしょうか…内容は非常に確からしいと思ったのでそのまま引用しました。

Youtube には他にもいくつか面白い演奏例がありますが、"Ó abre alas" で Youtube を検索するとトップに出てくる動画(これ)は、"Chiquinha Gonzaga - Ô abre alas ( marchinha de carnaval - 1939 )"などともっともらしいタイトルと画像がついているにもかかわらず、実は違うので注意です。

この検索で最初にでてくる動画の歌をオリジナル歌詞と照らし合わすとすぐ気がつきますが、微妙に似てるんですが歌詞も曲も違っています。動画のアップロード主も完全にウソをついているわけではなく、ちゃんと説明文では " J. Piedade と Jorge Faraj がシキーニャ・ゴンザーガのテーマを使って作曲"と書いてます。じつはこの曲は、シキーニャのオー・アブリ・アラスにインスパイアされてオリジナルの40年も後の1939年に作られた"Abre Alas"という曲です。

ちなみにシキーニャ版のオリジナル歌詞はこんな風です。

Ó abre alas
Que eu quero passar
おお!そこを開けろ、通しておくれ
x2

Eu sou da lira
Não posso negar
私は竪琴なんだよ、進まないわけにはいかない

x2

Rosa de Ouro
É que vai ganhar
勝つのは、ローザ・デ・オウロだ


はい、終わりです。ものすごいシンプルな歌詞ですね。これを一団が行進しながら繰り返し何度も演奏するわけです。

現代のサンバ・パレードでは『アブリ・アラス』というとこれだけで、パレードの先頭の山車と踊り子らを表す名詞になってるんですが、この時代のカーニバルにアブレ・アラスの役職が存在していたかどうか調べた範囲ではわかりませんでしたので、ここでは"abre"(開く)"alas"(列)を文法どおり解釈して、このように訳してみました。人の列を左右にザッと分けさせて真ん中を通っていくイメージです(今思いつきましたが、ひょっとするとこの曲のヒットがきっかけで、先頭グループをアブレ・アラスと呼ぶようになった可能性はあるかも…?)

唐突にでてくる『竪琴』はなんのこっちゃ意味不明な感じですが、ちゃんと意味があります。琴といってもいわゆるハープのことではなく(ハープはポルトガル語でharpa)、リュラーという、立ち位置としてはバイオリンやギターに近い存在の楽器のことです。で、このlira(もしくはlyra)という楽器はギリシャ神話の吟遊詩人という設定のオルペウス(いわゆるオルフェ)の基本装備楽器であったり、昔から詩人とか音楽家の象徴になるようですね。つまり詩と音楽で周囲を魅了する人、サンバに人生を捧げてるサンビスタのような人達のシンボルが『琴の人』なんですね。

歌詞の意味はようするに、"さあさあ我らが一団のお通りだそこのこけそこのけ、ウチらが一番になるぞぉッ!"ってな感じです。後々現代に至るまで100年以上もの間に作曲された数限りないカーニバル曲で歌われるテーマの、もっとも基本的な芯の部分を凝縮したまさにマルシンニャ第一号にふさわしい歌詞ですね。

- ブラジル映画祭2013 -

さてゴンザーガといえば、ルイス・ゴンザーガですが(とものすごく強引に話題を転換)、ブラジル音楽界っていろんなところで人脈がつながってるので、もしやバイアォンのゴンザガォンとシキーニャがどこかで血筋のつながりあるんちゃうやろか…?と、思いませんでしたか?じつは驚愕の事実があります。シキーニャ・ゴンザーガとルイス・ゴンザーガは兄弟なんです…

えええ!?年代がおかしいやん???すみませんフザケました。このシキーニャ・ゴンザーガさんは同名の別人です。というか『シキーニャ』はニックネームなので、厳密には同姓同名でもありませんね。

このバイアォンの王様の妹さんのシキーニャさんもまた兄の影響でアコーディオン奏者の歌手だったのですが、残念ながら2011年にお亡くなりになっています。

去年のブラジル映画祭ではウンベルト・テイシェイラの伝記映画でルイス・ゴンザーガを中心とするバイアォンのドキュメントが語られましたが、今月から来月にかけてのブラジル映画祭2013では去年の映画祭の記事でもちょっと触れました『ゴンザーガ 父から子へ(Gonzaga - De Pai para Filho)』という伝記映画がいよいよ日本で公開になります。これは『フランシスコの2人の息子』の監督がルイス・ゴンザーガの息子を軸にして彼らの音楽と人物像にスポットを当てたもので、昨年ルイス・ゴンザーガ生誕100周年を記念する映画としてブラジルで公開になった映画です。

他に今回の映画祭ではブラジル音楽関連の映画として『ウィルソン・シモナル〜スウィング! ダンス!! ブラジル!!!〜』『ハウル・セイシャス 〜終わりなきメタモルフォーゼ〜』がピックアップされています。どちらの人物についても半可通の私なんぞが語れるような話は何もないので、たまたま見つけた他所様の解説へのポインタを置いておきますね。

よそ様の勉強になるリンク
・ウィルソン・シモナルの参考
・ハウル・セイシャスの参考その1
・ハウル・セイシャスの参考その2


個人的にはゴンザーガも興味ありますが、ウィルソン・シモナルは必見かなーと思うております。例によって関東や九州はすでに日程終了しておりますが、こちら関西では今週の土曜10月26日から大阪、11月16日から京都の開催となっています。

ブラジル映画祭2013公式サイト: www.cinemabrasil.info

大阪のスケジュールはここ
京都のスケジュールはここ


大阪で見逃しても京都でフォローアップ、という手もありますが去年同様に京都のスケジュールは大阪より上映数が減りますので注意です。また映画によっては全日程で1回しか上映しなかったりするのでスケジュールをよく確認する必要があります。

とりあえず私は土曜か日曜に九条のシネヌーヴォーにいこうかな、と思うております。
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2013年09月30日

オスカー・カストロ・ネヴィスがLAの自宅でお亡くなりになられました

"Morre compositor, arranjador e violinista Oscar Castro Neves"
"作曲家、アレンジャー、ギタリストのオスカー・カストロ・ネヴィスが死去"

グローボサイトの Jornal Nacional の記事リンク(ニュース動画もあります)

作曲家/アレンジャー/ギタリストのオスカー・カストロ・ネヴィス(Oscar Castro Neves, 国際的には Castro-Neves 表記で知られる)がアメリカ合衆国においてお亡くなりになった。73歳でガン闘病中であった。

ボサノヴァの先駆者の一人でありカストロ・ネヴィス兄弟カルテット(o quarteto Os Irmãos Castro Neves)を1950年代に編成。

彼の作品・演奏は有名ジャズミュージシャンに認められ、アメリカ市場への扉を開いた。ロサンゼルスに永住を決め、長年にわたってブラジル人ミュージシャンや国際的なアーティスト達と演奏を続けた。


ボサノバの先駆者といわれる人は大勢いますが、例えばA.Cジョビンやジョアン・ジルベルト、ナラ・レオンといったようなステージの上で役者として激しい立ち回りを演じた面々がいた一方で、いわゆる『舞台裏の仕事』を引き受けて楽屋や舞台の袖で様子を見守りながらステージの成功を支えた方々もいます。オスカー・カストロ・ネヴィスは生来のミュージシャンでしたが、どちらかというと"舞台裏側"において重要な役割を担ってきた人物といえるかもしれません。

青年時代、ボサノヴァの黎明期からキャリアをスタートして近年に至るまで、そしてボサノヴァ的な内容からそうでないものまで、ブラジル、米国や日本など多岐にわたるミュージシャンのレコーディングのあちこちで彼の名前がクレジットされているのを見つける事が出来ます。

別のオ・グローボの記事で、オスカー・カストロ・ネヴェスとよく似た役割を担ってきた(しかし同時に"ボサノバ・オン・ステージ"の役者としても主役級である)ロベルト・メネスカル(Roberto Menescal)のコメントが載っていたので抜粋してみます。

"Morre Oscar Castro Neves, um dos precursores da Bossa Nova"
"ボサノヴァの草分けの一人オスカー・カストロ・ネヴィスが死去"
オ・グローボの記事リンク

作曲家、アレンジャー、そしてギタリストのオスカー・カストロ・ネヴィスがこの金曜に73歳で死去した。一番下の弟であるペドロ・パウロ(Pedro Paulo)によれば、数ヶ月間ガンの治療を受けていたが最後はロサンゼルスの自宅にて療養していた、とのことだ。

彼は1950年代にボサノバの先駆けとして兄弟のイコ(Iko, ベース)、レオ(Léo, ドラム)、マリオ(Mário, ピアノ)とともにカストロ・ネヴィス兄弟グループを結成した。

「オスカーと知り合ったのは彼が16歳の時だったな。若かったのに彼はすごく演奏が上手かったんだ。彼はいかなるときも優れたミュージシャンであって、後々にアメリカや日本での仕事にまで繋っていくキャリアを、しっかりと考えながらやっていたんだな。ブラジルの外へボサノヴァを知らめるという役割、それこそが彼の真髄だったんだ」と、ロベルト・メネスカルは言う。


ちなみに彼の最初の作曲にして代表曲のひとつでもある "Chora Tua Tristeza"(ショーラ・トゥア・トリステーザ)はロベルト・メネスカルと知り合った時期、16歳の時につくっているんですね。すごいです。


16歳のときカバキーニョ奏者でもあった彼は、バスで移動中に初めての作曲を開始した。家につくと真っ直ぐにギターへ向いメロディを書きとめた。そしてハーモニーをつけて、歌詞をつけるため友人で建築家のルヴェルシー・フィオリニ(Luvercy Fiorini)を呼んだ。

こうして"Chora Tua Tristeza"が出来上がった。それは1956年のことだったが、それからのちに友人宅でのセッションでアライジ・コスタ(Alaíde Costa)が指名してくるまでの3年間、まだ若かった彼は待たなければならなかった。その時、最初のLPである"Gosto de você"(1959)を発売したばかりであったアライジ・コスタは、二作目のLPのレパートリーを探しはじめたところだった。


"Chora Tua Tristeza" の作詞の Luvercy Fiorini を"建築家"と表記しているのが興味深いですね。Luvercy Fiorini 通称 Luva(手袋の意味)彼は他にも "Onde está você", "Morrer de Amor"(英語題は I Live to Love You) 等の有名曲をいくつも作詞・作曲していてミュージシャンでもあったわけですが、ボサノバムーブメントにかかわった有名人は元々建築家を目指している人が多かったり(シコ・ブアルキ、A.C.ジョビンなど)、ムーブメントのきっかけになった重要イベントが建築大学で行われていたりと、ボサノヴァと建築学には何か繋りの深い部分があります(おそらくオスカー・ニーマイヤーの存在が影響している、と私は考えています)。

アライジ・コスタから "Chora Tua Tristeza" を録音したいと依頼を受けた当時の彼はまだ楽譜に明るくなかったので、カルロス・リラのつてを辿ってネルシンニョ・ド・トロンボーニ(Nelsinho do Trombone)に編曲を依頼したそうです。最終的に完成した録音を聴いたオスカー先生は『自分の作曲がオーケストラ編曲になっているッ!!』と、ものすごく興奮したと生前のインタビューで語っています。

ちなみにこの録音は、アライジ・コスタの "Alaíde canta suavemente"(1960, RCA Victor/BMG BRASIL)というアルバムで聴くことができ、iTunes や Amazon のオンラインMP3ストアで買うこともできます。

参考: アマゾンMP3ストア "Alaíde canta suavemente"(試聴できます)

1950年代の半ばリオの南部地区(つまりボサノヴァの揺り籠であった時期と場所)が『カストロ・ネヴィス兄弟』の活動の中心地でしたが、弟達にせかされて一番上のマリオが、そのころはもう圧倒的な存在感があったA.C.ジョビン(当時30歳)におそるおそる電話してみると、なんとマエストロ・ジョビンが彼らの事を知っていてすぐに会いにきてくれたというぐらいに、彼らの名前はその界隈では有名になりつつありました。ロナルド・ボスコリ(Ronaldo Bôscoli, エリス・レジーナの最初の夫)と共作した“Não faz assim”を当時ガロットス・ダ・ルアを結成していたジョアン・ジルベルトが吹き込むなど彼らは着実にボサノヴァ勃興期におけるキャリアと人脈をひろげていきました。

そして1962年11月、ボサノヴァがアメリカとそれに続く世界におけるビジネス的成功の種をまき、またオスカー・カストロ・ネヴィス自身のボサノヴァ伝道師としての役回りを運命づける重要なイベントが発生します。

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アメリカNYはカーネギー・ホールにおける、超有名な歴史的ボサノヴァ・コンサートです。ここで始めてボサノヴァが、そのクリエイターたるブラジル人ミュージシャン自身の手によってアメリカ人ら(主にジャズメン)に公式に披露されボサノヴァを世界のビジネスの場へ売り出す先鞭をつけた、というのはボサノヴァの歴史関連の著述では繰り返しでてくる逸話です。

CD クレジットでも見てとれるようにオスカー・カストロ・ネヴィスはステージでの伴奏や自身のバンドのプレゼンテーションをこなしつつも、メネスカルやらカルロス・リラらの傍らでジョビンを始めとするミュージシャンたちのアメリカ滞在の都合や諸々の調整など、まさに『舞台の裏方の仕事』も引き受けていました。

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こうした仕事をしているうちに、オスカー先生の才能や作品もまたアメリカ人ミュージシャンの関心を惹きつける結果となって、やがてディジー・ガレスピーやスタン・ゲッツ、バド・シャンク等といった著名なジャズメンのサポートや共演をするようになっていきます。1963年に一旦ブラジルへ戻りアレンジャーとして仕事しますが、1967年にクアルテート・エン・シーとともに再び USA へ舞い戻って、そのまま最後までロスに居を構えて活動を続けました。1971年からはセルジオ・メンデスのBrazil'66のメンバーとして入り、1981年にグループを脱退するまで15枚のアルバムを録音しています。

述べたとおり、彼は非常に多岐にわたるミュージシャンと大量の仕事を残しています。ボサノヴァ好きの人だったらおそらくまず持っているアルバムと思われる超名作「Elis&Tom」(邦題:『ばらに降る雨』)これにもギターで参加しています。ジャズ系のブラジリアンミュージック好きの間で名盤と誉れの高いトゥーツ・シールマンス(Toots Thielemans)の"ブラジル・プロジェクト"(1992年)これのプロデュースはマイルス・ゴールドマンとオスカー先生です(オスカルとカナ表記されることも多い)。このブラジル・プロジェクトではもちろん演奏でも参加しています。

またロベルト・メネスカルと同様、日本における活動も非常に積極的な方でした(メネスカル先生のほうはご存命ですよ、念のため)。渡辺貞夫、国府弘子らのジャズ系ミュージシャンだけでなく大貫妙子など非ジャズ/ボサノヴァ系のミュージシャンとも色々と仕事をやっておられたようです。小野リサとも何度か共演してたと思いますが、だいぶ前の2000年前後だったか私が共演コンサートで見たときは体からほとばしる音楽の繊細さとアグレッシブさに感心しつつも、曲の間ごとに小野リサさんのかけ合い漫才のようなMCでいじられてるのが何ともチャーミングで、愉快な面白いオッチャンやなーと親近感がわいた思い出があります(それがきっかけでオスカー先生に興味を引かれてCD集めるようになりました)

訃報を知って新めて調べたり思い返したりして、そのあまりに幅広く長きにわたる仕事ぶりを見るにつけ、もしワタクシの個人所蔵のCD全部の参加ミュージシャン・クレジットを残らずカウントして出現数順に並べたら案外、オスカー・カストロ・ネヴィス先生が筆頭だったりするかもしれないな、などと思ったりします。

現にボサノヴァの歴史にかかわった"ボサノヴァの先駆者"でありつつも、"ボサノヴァ"という単語ではくくりきれないスケールの大きさを持って、しかし結局真髄の部分では"ボサノヴァ人"としての生き方をつらぬいた、そんな方であったように思います。

Descase em paz, maestro Oscar Castro Neves...
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2013年06月11日

仮想ジョアン・ジルベルトは本物か?

さて、6月10日はジョアン・ジルベルト先生の82歳のお誕生日でありました。日本ではもう日付けが変って11日になっていますが、本国ブラジルでは半日時差があるので今は10日の午後となります。

お誕生日おめでとうございます。

御大の記念すべき誕生日ではありますが、キャンセルされてしまった80歳記念コンサートの時のような動きも今年は全く無く、相変わらず衆目の元には一切出てくることもなく(おそらく)ご家族と一緒にただただ平和な一日を過ごされているのでしょう。

で、何か動きはないのかな?とインターネットを検索にかかってハテ?と気がついたんですが、ジョアン・ジルベルトの公式サイトってあるんでしょうか?

サクっと検索してみますと、Wikipedia を筆頭にアマゾン(といってもブラジルの大河のことではなく通販サイトのほう)だとかファン・サイトだとか出てきますが、どうもそれらしいものは見当たらないようです。

だったらフェイスブックとかはどうかな?と考えたところで、何年か前にこんな事件があったのを思い出しました。

名付けて『フェイスブック ヴァーチャル・ジョアン・ジルベルト事件』です。

"João Gilberto no Facebook? Perfil do baiano no site gera dúvidas e alimenta o mito"
"ジョアン・ジルベルトがフェイスブック?ジョアンのフェイスブック・プロフィールが疑惑を呼びまたひとつの伝説に"

O GLOBO の引用元記事

これは2010年の4月に投稿された記事になりますが、つまりジョアン・ジルベルトのフェイスブック・アカウントなるものが現れて、まるで本人であるかのように色んな事をコメントしたり演奏動画(新しいものではなくYoutubeとかにある古い動画ですが)をアップしたりといった活動を始めたんですが、これが本物かどうかで物議を醸したという事件です。

もちろんジョアンぐらいの人であれば、フェイク・アカウントの一つや二つ出てきてもちっともおかしくはないんですけども、この事件が興味深いのは、まず「内容がものすごく真に迫っていた」ということです。

古い友人や一緒に仕事した人でなければ知らないと思われる情報をちょいちょい出してくるので、たとえばダニーロ・カイミ(Danilo Caymmi)だとか, ジャキス・モレレンバウム(Jaques Morelenbaum)などは、たぶんこれは本人に違いない、と確信するに至った程だったんですね。

例えば、『ジョアン、声とギター("João, Voz e Violão", 2000年)』をディレクションしたセルジオ・カルヴァーリョ(Sérgio Carvalho)は「あのレコーディングの時にジョアンのお気に入りのピザ屋があったんだけども、この仮想ジョアンはその店の名前を知っていたんだ!!」という理由でこのアカウントが彼本人に間違いないと確信していました。

もちろんダニエル・ジョビン(Daniel Jobim)のように「これはフェイク(偽物)だよ」と言い切るミュージシャンもいましたが、例えば娘さんのベベウ・ジルベルト(Bebel Gilberto,ミウシャとの娘)でさえも「いや本人ではないとアタシは思いますけど、まあ可能性はありますよ、わかりませんけどね」とコメントしています。

もっと"社交的"な人だったら、本人に訊いて「ありゃニセモンや」と確認とってお終いなわけですし、そもそも社交的タイプなミュージシャンなら自ら積極的にソーシャルネットに参加してそうですけども、ジョアンはああいう人ですからまず普通には確認は取れない、仮に取れたとしてもホンマかな〜?実は裏をかいてこっそりうちらの反応みて楽しんどるのとちゃうか〜?みたいにどうも疑念を完全に払拭できないわけです。

そしてこの謎アカウントの活動が始まってから1年ほどした2011年、あるきっかけで『フォーリャ・デ・サンパウロ(Folha de São Paulo)』の記者がこの『仮想ジョアン・ジルベルト』に接触し真偽を確かめる機会をえることができたんですね。

"Facebook のジョアン・ジルベルトを名乗るネチズン"
"Internauta se passa por João Gilberto em perfil do Facebook"

Folha Online の引用元記事
      :

- DESABAFO(暴露) -

"Queria desabafar(ぶちまけたいんだ)"、私が15年住んだアパートを追いだされそうになってどれほど精神的に苦しんでいるか、パニックになって眠れないでいるかを。と、フェイスブックを通じてFolhaに接触を求めてきたのが、まさにこの『ジョアン・ジルベルト』だった。

しかしいったい本当に、これは彼本人なのだろうか?

"彼は'desabafar(ぶちまける、暴露する)'なんて単語は絶対使わないわよ"とジョアンの一番小さい娘の母であり現在の奥さんであるクラウジア・ファイソル(Claudia Faissol)は断言する。

ネルソン・モッタ(Nelson Motta)はこう言った。"なあ、ジョアンて人にかんする限り、有り得ないことは何もないんだよ。ひょっとすると本人だったりするかもしれないじゃないか。""とにかく確かめてみてよ。"

その日の夜に e-mail によるインタビューを行う段取りを整えた。

"君らを信用しないわけじゃないが、ちょっと不安なんでね。"とジョアンらしき人物。"Veja誌にいやがらせされたんだよ。バカにしたような記事を書かれてしまった。だからこれは e-mail のインタビューにしてほしい。"


こうして e-mail によってヴァーチャル・ジョアンと朝方までメッセージのやり取りが行われ(メッセージの全文はここで読めます)、件の立ち退き問題のほか大雨の被害の話題、サッカー、ヨガ、本、テレビ、そしてもちろん音楽など様々な話題が交されました。

さて、ここで名探偵の登場です。誰かな?なんとカエターノ先生(Caetano Veloso)です。
      :

ジョアンと同様に「夜行性(Notívago)」であるカエターノ・ヴェローゾはその時間はコンピュータの前にいるはずだった。

"カエターノ、こんなヘンな話でゴメンなんやけど、いま『ワシがジョアン・ジルベルトじゃ』っていう人物とメールのやり取りしてるんだけど、どう思う?"

するとカエターノから答えが返ってきた。カエターノによると、ジョアン・ジルベルトが e-mail アカウントを持ってるとか、コンピュータを使ってるとか、そんな話は聞いたことがないと言う。そしてメッセージを見せてくれ、と。

- 無学で若者 -


"もうやめたほうがいいだろうな。こいつはジョアンじゃない。"カエターノは断言した。"こいつは大きなミスをやらかしてる。'Carnaval da Vitória(勝利のカーニバル)'の歌詞だよ。この歌詞はね、第二次世界大戦を戦った兵士の歌なんだ。年齢はこの歌を理解する上でとても重要なのさ。だからこのメールを書いたのは、この曲のことを聴いたことがない、あまり学が無い、しかも若い人だね。"


ここでカエターノも興味を惹かれたのか自身も e-mail を通じたインタビューに加わり、最終的に「確認するために電話してもらう」約束をとりつけます。そして翌日、本当に指定の時間に電話がかかってきたそうです。

・・・背景でテレビの音がやかましく鳴っていた。その声は、どう見つもっても30歳がいいとこの人物のものだった(カエターノは正しかった)強いバイーア訛りがあり、ささやくような小声だった。"ジョアン本人だよ、記事を公にしてもかまわないよ。"と、それだけだった。

この電話の際に、ジョアンと非常に近しい友人であり興業主でもあるオタビオ・テルセイロ(Otávio Terceiro)氏が電話口で「警察に捕まえさせるぞ」と警告しているので、電話をかけさせたのはやはり「本人確認のため」ではなく始めからこういうマネを止めさせるためだった、ということでしょうね。

ちなみにジョアンの元嫁であり歌手のミウシャ(Miúcha)は後日"私の知る限り、本物のジョアンだったら『私が本人だ』なんて言うためだけに電話するような事は絶対ないわよ"と断言しています。

しかし、面白いのはそのミウシャさんですら、「でもねぇ、なんともいえないけど、でも全く有り得ない、とも思わないのよね。だってジョアンは予測不能な人だから」とも述べているんですね。

普通に考えるとどう見てもニセモノなんだけど、そのあまりに断定的にニセモノくさいところが、むしろひょっとすると本物かもしれない、なにしろジョアンはそういう人だから、という絶妙な疑念を呼び起こす結果となっているのが面白いです。

なお、フォーリャはエージェント等を通じて本物のリアル・ジョアンにコンタクトも試みているんですが、ちょうど件の立ち退き問題の事もありこの類のコンタクトには全く応じない状況だったので(というかいつもそうかも)失敗に終わっています。

これらの記事は既に数年前の話ですが、この記事に出てきた「仮想ジョアン」フェイスブック・アカウントが現在どうなったかは不明です。ただ、今現在 Facebook を検索すると『ジョアン・ジルベルト』のアカウント(どれも本人ではない)はいくつか出てきますので、どれかがソレかもしれません。

フェイスブックの他に私のショボイ twitter アカウントでもフォローしてるジョアン・ジルベルトの名を持つフェイクの twitter アカウントもあったりします(プロフィールを確認するとちゃんと「FAKE」と書いてあります)。

・・・と、ここまで来たところで今さらですが、ひとつ種あかしです。

先にオフィシャルサイトは無いようだ、と書きましたがこれが実はあったんです。google の日本語モードだと出てきませんが、これをポルトガル語モードでエリア設定をブラジルにして検索するとトップに出てきます。

João Gilberto Oficial

正確にはこれ、ブラジルのライブ関連のプロデュースをやっている会社『ショウ・ブラス(ShowBras)』のサイトのジョアンのページになりますので、厳密な意味での本人公式サイトというわけでもないですが、ファンサイトとかCDを買うためのサイトではない「契約するための窓口」としての公式サイトになります(但し現在はジョアンとShowBrasとの契約は切れているっぽいですが)。

このサイト、なかなか珍しい写真なんかもあったりしてジョアン・ファンなら一度は訪れて損はないんじゃないでしょうか(というか本物のファンなら今さらこんなブログで見なくても知ってるか・・・)。

で、日本語の Wikipedia には載ってませんが、ポルトガル語版の Wikipedia(ポルトガル語なんで正確には Wikipédia)のジョアン・ジルベルトの項目にはオフィシャルサイトリンクというのもありまして、それをクリックしますとこちらに飛びます→ JoãoGilberto.com

この『JoãoGilberto.com』のほうは、ただペラっと1ページ表示される中にいくつかリンク先があるだけのサイトで情報はほとんどありません。たぶんドメインを確保することだけが狙いのサイトと思いますが、下のほうに"Contact Showbras for booking"とありますので、これも公式サイトと見て良いでしょう(なにしろ仮想ジョアンの件があるので疑り深くならざるを得ない)。

そして今回のお話のオチがこれ。このページの下にある部分を読んで下さい。英語です。

"João Gilberto does not operate a social networking site.
All Facebook and Myspace pages for João Gilberto are FAKE."

"ジョアン・ジルベルトはソーシャルネットワーク・サイトは使っていません。フェイスブックとマイスペースのすべてのページはフェイクです。"


はい、結論です。 Facebook, twitter その他ソーシャルネット的なアカウントは全部ニセモンですよ、ということです。まあそりゃそうだよなあー、チャンチャン・・・と、落ちがつきそうでつかないのが、ジョアン・ジルベルトという人のミステリーです。そう、元嫁のミウシャさんや娘のベベウさんですら言ってましたよね・・・思いだしてください・・・

"ジョアンは、予測不能なんです。あらゆることが有り得る"

どうみてもフェイクにみえる Facebook の『ジョアン・ジルベルト』。ひょっとすると、あなたに返事をしてくるのは、ジョアンその人かもしれませんよ・・・
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2013年05月23日

EMIがジョアン・ジルベルトに『伝説』のオリジナル・マスターテープを譲渡

ついにやりました!!

まずここまでの流れをざっとまとめましょう。

事の起りはこうです。1988年、EMI社はボサノヴァ初期の記念碑的作品群である3LP 『想いあふれて(Chega de saudade,1959年)』,『愛と微笑みと花(O amor, o sorriso e a flor,1960年)", 『ジョアン・ジルベルト(João Gilberto,1961年)』 を元に『ジョアン・ジルベルトの伝説("The Legendary João Gilberto")』というLPをつくり、1992年にはCD化もされました(日本では1993年に東芝EMIより発売)。

ところが、1.そもそもジョアン・ジルベルトの許諾を確認していなかった、2.オリジナルを無視して曲順を適当に入れかえた上さらに一部をメドレーに編集して無理矢理2LPに収めてしまっていた、3.勝手に音響処理を入れてオリジナルの音質を損なった、という三大理由によりジョアン先生のお怒りにふれてしまい、1992年から法廷での闘いが開始され、『伝説』もその元になった3アルバムも再発が不可能となる事態がこれまで続いていました。

ジョアン・ジルベルト的には3番目の「音質がヘンな風になってしまった」というのが特にお気に召さなかったようです。彼は絶対音感の持ち主であり、ステージでのマイクに異常に拘りがあったり、あるいは何かの録音の都度に他のバンドマン等と音程やら音質の事で揉め事になって何時間も潰す、という話が彼とかかわった関係者の証言では必ず出てくるぐらい音質に神経質なので、なるほどそうだろうなと納得できる話です。

そして、2011年12月司法上級裁判所(o Superior Tribunal de Justiça)がジョアンの訴えを認め、賠償およびEMIは今後同アルバムおよびその元になったアルバムのリマスターや再商品化を行うことができない、という裁定がなされました。

ただこれらの作品のマスターテープの管理はこれまで EMI 側が保持しており、そのため2011年からこれまでの間、この3アルバムの貴重なオリジナル・マスターは衆目から完全に隠匿され誰にもリマスターできない『とらわれの身』となってしまっていたわけです。

その状況が変るかもしれない希望の光が表れたのが今年4月、つまり先月の26日。リオ第二民事法廷(a 2a Vara Cível do Rio)が EMIからジョアン側へこれらのマスターテープを譲渡するように、という仮処分(Liminar)が下されました。

期限ぎりぎりにEMI側のマスターテープ管理業者である Iron Mountain Brasil社の保管場所からひっぱりだされてきたダンボールとプチプチ・ビニールで梱包された包みをジョアン側の弁護士団は受けとらず、またリオ第七民事法廷(a 7a Câmara Cível do Tribunal de Justiça do Rio)のアンジラーデ(Andrade)裁判官が「ジョアン側が受けとったマスターを管理する方法が述べられていない」事を理由にこの仮処分を保留としました。

ところが先日、ジョアン側弁護士が「Iron Mountainと同様にスペシャリストである専門業者と契約してある」と指摘をしたところ、裁判官はそれを認め保留を撤回、つまり再び仮処分が有効となりました。

"マスターの管理を保証していたため、裁判所がEMIにLPのマスターを譲渡するよう命令"
"Com garantia de preservação, Justiça manda EMI devolver LPs a João Gilberto"

Folha Onlineソース記事

そして昨日22日午後3時(現地時間)マスターテープの引渡しが履行されたようです。

"法闘争の後、ジョアン・ジルベルトに引き渡されたアルバムのマスターテープ; 画像をご覧ください"
"Após briga judicial, masters de discos são devolvidas a João Gilberto; veja imagens"

O Globo 引用元記事
これがEMIレコードと争った歌手ジョアン・ジルベルトの3つのレコードのマスターである。

これらは保温ケースに封印されて水曜15時に、ジョアンの代表者であるところのセントロ・ド・リオにあるハファエウ・ピメンタ(Rafael Pimenta)弁護士のオフィスへ届けられた。もう既にそこにはなく、メディア保管のスペシャリストであるRio Off Site の職員グループがボンスセッソ(Bonsucesso)にある保管場所に搬入済みである。

ドラマの次の展開は、マルコ・マゾーラ(Marco Mazzola)プロデューサーによるテープの状態についての鑑定によって果してどのような法裁定がなされるか、だ。

ということで、リンク先の元記事にはあの3枚およびEP版"ジョアン・ジルベルト映画オルフェを歌う(João Gilberto cantando as músicas do filme Orfeu do Carnaval, 1959年)"のマスターの画像がありますんで、是非ご覧ください。はああーこれがあの有名な・・・と感慨しきりですね。
posted by blogsapo at 19:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | MPB, BossaNova | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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